終戦後しばらくの間、羽田空港はGHQの管理下にあり、かつて
のヒコーキ野郎たちが慨嘆したように、日本の空は日本人が飛ぶことさえ
ままならなかった。
日本航空が戦後初の民間機マーチン202A「もく星」号によって営業を
開始したのが、1951年(昭和26年)10月。飛行機、パイロットから
整備員まで、すべてノースウェスト航空からの借り物であった。
そんな折、一人の男がシェル石油を訪ねた。知人の航空機使用事業へ
燃料を供給するため、その取扱いについて直談判するのが目的であった。
南 貞夫、38歳。航空燃料事業との運命の出会いは、1952年(昭和27年)
のことであった。
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